磯崎が死んだ.少なくとも我々の世代までは磯崎はいつも頭の一隅を占めていたのではないだろうか.信じる人,否定する人,無視する人皆意識の一部を占拠された人たちの反応だったと思う.
磯崎の死をきっかけに,ふと建築そのものを思い返した.建築家をアトリエ派と言い出したのが誰かは知らないが,磯崎はそれを自認して先頭を走り続けた.逆にそこから最も遠いところに位置しているのが建物を不動産と捉えたり,建てるのではなく売ると考える人たちだろう.設計者はこの間のどこかに位置するが,私自身はできるだけ磯崎の近いところに位置していたいと思って今に至る.
ただ,両極の距離が遠すぎる気がする.一方は重箱の隅の隅をつついて,極めて狭い内輪でしか通じない建築論をこねくり回し,他方は歴史や文化の中に建築を位置付けることなど想像したことすらない.戦後マイナスからスタートし,一時はGDPが世界2位にまで回復した国が,稼いだ金を文化に繋げることができなかったのは如何にも貧しい.ケンチクヤの端くれとしてはこの状況は受け入れがたい.
先ずは,日常を豊かにしたい.金をためることではない.稼いだ金をどんな価値につなげるのか.建築で言えば,その建築が建つことでどんな日常を手に入れられるのか.たとえばそんな考え方もあるだろう.