住むということ 住宅難という不条理の克服 その1

設計者は良かれと思っていつも新しいことを提案しようとする.次々新しいことが湧いてくる社会は多様で豊かだと信じているからだ.しかし,その一方でその様が一般的に見て少し浮世離れして見えることもある.良かれと思って多様で豊かなことに挑戦し続けているその陰に不条理は常に存在する.だから,設計者は発展的で挑戦的な提案をするだけでなく,不条理の克服に正面から取り組むことも必要だと思う.

壱 コロナ禍で起こったこと

住むことは当たり前すぎて普段意識することはないが,日々繰り返す日常がコロナ禍に乱されたことで再認識することになった.これまでも,地震,津波,台風,洪水などの災害で住むところを追われた人は沢山いるが,これらはいずれも住む場所が物理的に消失したケースだった.しかし,コロナ禍で起きていることは,失業に伴い住むところを追われることや感染により隔離されること,また,健康でも長時間自宅待機することを長期間に渡り強いられることなど,住む場所はこれまでと変わらずそこに存在するのに,住む権利を失うことや住む行為を制限されることが起こっている.
住む権利を失うことについて,それは派遣切りが社会問題になった時にも起こったが,過去に限ったことではなく将来においても十分に起こり得る.例えば,1950年代以降に建てられた共同住宅がこれから続々と建て替えられるはずだが,従前からの居住者がたとえリタイヤした年寄りでも,数百万円支払わなければ建て替え後に戻ってこられない不条理[1]が考えられる.また,政治が格差の拡がる社会に対して有効な手立てを講じられなければ,女性や若者がホームレスになる悪夢が現実にならないとも限らない.これに対処するには建築の領分を越境し,拙くても制度や社会保障を含めた考察をする必要があるが,それは実現の可能性について検証することにも関わるため論考の最後にもう一度言及する.
一方,住む行為を制限されることについて,不自由な生活をするくらいならワーケーションや多拠点生活を試みようとする人たちが増えた.しかし,裏を返せばそれができない人たちは制限され不自由な生活を強いられる.だから,ワーケーションや多拠点生活に目を向けるよりも,不自由な生活の方に注目したい.
コロナ禍による不自由な生活が離婚やDVの増加に繋がってしまう要因は,長期間に渡って家に居続けると,その間ずっと家族と過ごしたり,また逆に一人きりでいることには堪えられない住環境の家だったということなのだろう.戦後家族像の中心は長らく核家族で,そこには家族団欒が暗黙の前提として念頭にあった.しかし,コロナ禍で家族の間に軋轢が生じた家では,来る日も来る日も家族が一緒に居続ける状況は,実は家族団欒に含まれていなかったということなのかもしれない.また,家はそもそもシェルターで,現代においては不快な社会から身を守る役割もあるはずなのに,人との接触よりSNSに慣れたはずの現代人ですら,ひとりでいると苦痛を覚えた.それは,家に対して人との関わりを完全に閉ざすことまでは求ていなかったということなのかもしれない.
結局,住む行為が制限されたことで良かれと思って培ってきた家の在り方に疑いが生じたということであり,われわれは現代の住み方に合う質を検証する必要がある.戦後間もない時期に,新しい住宅の確立に挑んだが,社会がどん底から成長期に至ろうとしていた七十年前に目指したことと,未来に向かって縮小しつつある現在において目指すこととは自ずと異なるだろう.

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