スタイルとしてのTATOO

もし、誰が見ても恥ずべき行為、たとえば女、子供、年寄り、障害を持つ人など弱者にしか暴力を振るわない卑怯者だけがTATOOOを入れているとしたら、自分もTATOOを入れたいと思うだろうか?でも、TATOOが喧嘩自慢の象徴だと感じられるなら入れたいと思う人はグッと増えるだろう。

強さに対する憧れは多かれ少なかれ誰もが持っている。きっと動物の本能なのだろう。人間社会の強さは複雑だから、腕力だけでなく金や学力も権力という強さの武器になる。そういう力を持って強くありたいから、みんなが求めるし尊ばれさえする。そう考えると、強さの中に潜む危険性に一抹の不安を感じてはいても、少なくともそれを悪と断ずることはできない。

翻って、TATOOを入れている人はたとえに挙げた卑怯者より喧嘩自慢の方が実際には多いだろう。そしてその上に、喧嘩自慢に憧れないまでも、強さに対してある種のシンパシーを抱き、カッコイイと思ってTATOOをファッションに取り入れる人が加わると、強さ→カッコイイ→TATOOというスタイルが確立する。

井岡一翔に反社会性を感じたことはないし、スマートで強い正統派ボクサーだと思う。だからこそ、そのような存在が、ボクシングと喧嘩自慢に共通するある種の強さを象徴するスタイルとしてのTATOOを入れることで、それが何を或いは誰を象徴しているのか不明瞭にしてしまうことに不安を抱く。もしかすると、反社会性を帯びたキツネがイオカというトラの威光の前にかすみ隠れてしまわないかと心配になる。

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