アメリカの大統領選挙はどうしても西部劇の決闘シーンと重なってしまう。敗者は全てを失い勝者は全てを手にする。それを掛けて一騎打ちをする構図が重なって見える。殆どの選挙区で導入されている選挙人の総取り方式にも、或いは英語のloserには敗者という訳があてられるが、その綴りにはlose(失う)という言葉が含まれていることにもそのことが現れているように思う。
毎度繰り広げられるネガティブキャンペーンに以前から違和感があった。それも今トランプ大統領が度を越えた言動を繰り返すことで違和感の正体が少し見えてきたような気がする。つまり、アメリカの大統領選挙は全てを手にすることのできる勝者を決めているだけ、言動の中身は決着をつけるための武器、もしかすると弾にすぎない。政策を実行するために自分に投票してくれと言っても、それは勝つための方便にしか聞こえない。だからネガティブキャンペーンでさえできるのだろう。勝てば官軍なのだ。少なくとも4年前勝利した現大統領はきっとそう思っていたから、報道されるたびに耳を疑うようなことを連発できたし、次期大統領を決める選挙の間もそれを続けていられるのだろう。
これは法がそれを規制していないということも影響していると思うが、勝てば何をしてもいいという発想で行動する輩が大統領になろうとは、そもそも想定していなかったのかもしれない。しかし、だからと言って何をしてもいいということではない。何を根拠にどこまでなら妥当性を維持できるのかを判断して行動すべきだし、それを以てその人の人としての成熟度が量られ、その人を社会がどう評価するかでその社会は評価されるのはいたって普通のことだろう。今回の大統領選挙ではそれが問われている。世界中はそういう目でアメリカを見ているのではないだろうか。
そして、同じようなことは日本でも起こっている。選挙で当選したのだからいちいち説明する必要がないと議員が考えているのならばそれは大変な誤解だと思う。むしろ逆で、国会議員には職務上の判断について説明する義務があるのは当然だ。部下が下した判断を認めた場合も、認めた上司にもその説明をする義務は当然生じる。なぜなら、選挙で国民の信任を受けて行動する国会議員は、その言動が信任に応えているかどうかを次の選挙で問われなければならない。そのためには、国民に説明する必要があるからだ。人事に関わることも例外ではない。その役職が適切に機能しているか証明する必要があるということだ。個人のプライバシーを問うているのではない。一部に開示できないことがあるとは思うが、もしそれに該当することなら、それがマスコミや国会で追及の対象になっている時点でそれはそれでアウトではないのか?セーフだというならそれは説明の対象だからと考えるのが道理ではないのか?私はそんなことを考えながらアメリカの大統領選挙を見ている。