優れた手段は目的になり得るのか?

 「睡眠と食事はちゃんと摂れよ。いくら勉強しても、体調崩して力を発揮できなきゃ(力が)ないのと同じだよ。」と昔よく子供に言った覚えがある。勉強のように訓練して身につける知識や技術の類をスキルというそうだが、それは使えてはじめて意味を成す。つまり手段として。しかし、スキルは専門的であるほどまた磨くほど世間一般の理解の及ぶところでなくなり、それを如何に活かすかを確認する前に、スキルを持っていることだけで評価されてしまうことが起こる。そのことが分かるとスキルを身につけること自体が目的化しがちだ。

 手段という意味では、スキル以外に権力や金なども高い有用性を持っている。権力は、未熟な人類にとって、責任を負う胆力と判断をできる能力を持つものにより適切に運営される必要があるのかもしれない。しかし、万能な力であるがゆえに手に入れることに夢中になりすぎて、何が適切な運営なのかを考えることが疎かになることがある。また金も、権力さえも金で買おうとするほど非常に万能で、その点で権力とよく似ている。しかし、実は金の価値は交換される対象に依存している。それなのに、万能であるがゆえに、何に使うかよりも手に入れることの方がアンバランスなほど重視される。

 上に三つの例を挙げたがきっと他にもある。防衛力だってそうだろう。専守のつもりが哲学を失うと、外交など如何にして多角的に守るかを考えるより、防衛力の増強一辺倒になる。気違いに刃物ということにならないか恐ろしくなる。やっぱり、私にとって手段は目的になり得ない。

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